自分はこの場所でどんなことができるのか、な?

 東望大久保医院の私のブログを覗いてくださる皆さま、こんにちは、大久保 仁です。長崎はここ数日、本当にいいお天気ですね。

 先週の土曜日、クリニックの掃除をしました。当クリニックは私が小6(12歳)の時に開院し、今年で38年目を迎えます。橘湾の海岸沿いにあり、今日のようなお天気の日には本当に気持ちのいい場所なのですが、やはり長年海風にさらされているせいか、途中のメンテナンスがうまくいってなかったせいか、建物が年数の割には(?)、痛んでいます。

 ちょうど、大学に行っている長男が長崎に帰ってきたこともあり、私の家族と、弟家族にも手伝ってもらって、クリニックの窓拭きや長〜く溜まっていた学会雑誌の整理などを皆で行いました。弟の嫁さんが、「お兄さんっ、”ワイパー”って知ってます?、窓掃除に便利なんですよ〜」と近くのナフコで ”ワイパーなるもの”を買ってきてくれました。当初、窓拭き用に雑巾を用意していた私にとっては、”ワイパーなるもの”は、「おおっ、これは便利!(◎_◎;)」と言わせるに十分な道具でした(後で気付いたのですが、クリニックの掃除道具ロッカーに”ワイパーなるもの”、ちゃんと入っていました)。

 掃除しながら、「僕はこれまで長く病院勤務の外科医をしてきたけど、ここに帰ってきてどんなことをすればいいだろうか?、どんなことができるのか?」なんて考えながら”ワイパーふきふき”していました。

 私は、医師の多い家に育ちましたが、もともと積極的に医師を志した訳ではありませんでした。大学の頃は、勉強はせず、医学道よりもむしろ剣道をもっぱらやってました。それでも、医師=外科医みたいに思っていたので、全く悩むことなく外科学教室に入局しました。考えたのは、出身大学の久留米大学の外科学教室に入るか、それとも出身大学以外の外科学教室に入るか、くらいの選択くらいでした(この頃はまだ、今のような研修医制度はなく、多くの人は最初から、内科、とか、産婦人科とかの医局に属するのが多かったのです)。

 出身大学の久留米大学外科学教室の中山教授がちょうどお辞めになる(退官)時だった(中山先生は有名な肝胆膵外科医)こと、肝臓という臓器に非常に興味を持っていたので、どこか他にいいとこないかな、と思っていたら、地元の長崎大学の外科は肝胆膵を専門にしており、その頃、教授となる先生を決めているところ、というのを聞きました(その教室は、父の出身の外科教室ということは知っていた)ので、どんな先生が教授になるにしろ、新しく、若い教室、というのに魅力を感じ、全く、父に相談することなく(決めた後に話はしましたが)、大学6年生になった早々、私は入局先を決めていました。その後、私の師となる兼松 隆之先生(現在、長崎みなとメディカルセンターの理事長をされています)が九州大学第2外科の准教授から長崎大学第2外科学講座の教授になられました。

 それからはや25年が経ちました。私が教室に入って数年後、兼松 隆之先生が長崎で肝移植を始められました(兼松先生は、当初から肝移植を教室のメインテーマにすることを宣言されていました)。

 肝臓に興味があって入った外科医の道で、教授が肝移植が専門ですから、私の臨床研究テーマは肝移植に関することになります。肝移植後に様々な原因で移植した肝臓が働かなくなることがありますが、その中の一つに肝虚血再灌流傷害というのがありまして、その原因の一つにエンドセリンという血管収縮物質があり、そのエンドセリンをある薬剤で抑えたら、肝虚血再灌流傷害は抑えられないものか?というのが私の研究テーマでした。申し訳ないことに、結局、私の研究は小論文のみで本論文にすることができず、博士号も取れませんでした(現在も申し訳なく思っており、先生の前に出ると、懺悔したい気持ちになります)。当時、毎日、豚の世話をし(豚を使って、たくさんの肝移植手術を行って実験をしていました)、術後を普通の「ひと」の手術と同じように術後管理を行い(豚は点滴一つとるのも大変なんです、獣医さん、尊敬します)かつ、生活のために当直をこなし、体力的にも精神的にもきつかったことを覚えています。それこそ、家庭のことはそっちのけで妻にも申し訳なく思っていますが、その後の外科医生活の中で、自分の手術手技や術後管理法などに本当に役に立ちました。

 その後、勤務した先で、乳がんの患者さんが多いところでは、乳がんの勉強をし、消化器内視鏡の診断・治療が多い病院では、内視鏡の勉強をし、血管外科手術が必要であれば、血管外科の手術や術後管理を学び、といったように、それぞれ行ったところで、「自分に求められているものは何だろうか?」と考えながら仕事に取り組んできました(そのおかげか、乳腺専門医、内分泌外科専門医、消化器外科専門医、消化器内視鏡専門医、がん治療医などの多種の専門医を取得できました。これまで勤務してきた病院の関係者の方や一緒に仕事をさせていただいた医局の先輩・後輩の方々、そして、私と共に一緒に病気と闘ってくれた患者さんに本当に感謝しています)。

 今から始まる、「まち医者」生活は、これまでのような外科医の生活とは少しテンポは違いますが、やっていくことは同じであろうと考えています。

これからも「私は私」なので、自分らしさを失わず、「自分に求められているものは何だろうか?」と問いかけながら、健康に不安のある方が、「どんな不安があるのか」、よくお話を聞きながら、できることをやっていこうと考えています。

 今回、長くなりました。すいません。